たまに部外者ながら書いてしまっているが、しばしば学術系のかたの言動が気になる。
スポーツに例えると、Jリーグなど不要、最初から4大リーグで戦うべし。4大リーガーになれない選手は意味が(プロでない)消えた方が良い。というような発言が聞かれる。
サッカーにせよ、プロ野球にせよ何にせよ、裾野の広さは重要だろう。
国内学会不要論にせよなににせよ、非常に裾野を狭くして、ごく一部の最上位リーガーのみにしようという試みであり、これは結局、その分野を痩せ細らせるのみだと思う。
勿論、仕事をまるでしないのでは問題だが・・・。
(外部者のため知らないが、国内のいろいろうんくさい関係があるようなところもあるが、とはいえである~)。
JリーグはJリーグで必要だし、その下部J2もJ3も必要だ。JALもさらに下の地域リーグもサッカーを考えると重要。
野球のメジャー、3A、2A、1A、ルーキーリーグなどでも同じかもしれない。
イギリスはサッカーで7部まであるとか。
そういう裾野の広さがスポーツを支えている。決して、ロナウドや本田などのごく一部の選手だけで支えられているわけでは無い。
が、学術系ではいわばJAL等価値がない、あれでプロか?プロなら・・・、といった言動がみられる。
当のアメリカやイギリスでさえ、かなり大学制度(高等教育制度)は複雑で、彼らのいうのはごく一部の研究大学の話なのだが・・・何故かそれが全てのような話になる。
勿論日本にも問題はある。コミュニティカレッジ、継続教育のようなところであれば、それはそれという学制が必要で、そこの教員は教員であって研究者としての側面は低い。トランプ大学のような営利大学もそれに近いかもしれない。
その辺の区分がなく、一律になっていることは問題かもしれない。
最近は高校の先生が研究もどきをすることも少なくなった。かつては地域研究は地元高校の先生が担い手だったという話も聞くが最近は、ほとんど絶滅危惧種化しているときく。
一部は在野のマイナー研究者(?)が頑張っている分野もあるが、国内の空洞化と相まってかなり少なくなってきているようだ。
国際誌にものらない、もどきといえばそうだろうが、こういうのも大事であったと思われるし、日本として国全体の底上げのためにも研究もどきであっても、それなりに学術的なことをする人は必要だと考えられる。
草野球やアマチュアスポーツが大切ということと変わりない。
(尚、そういう人がプロになれる:学術でいえば国際誌に掲載できるよう手引きできる人がいることが望ましい。コーチ役)。
アッパーミドル向けというか、大学が老後のカルチャースクール化して問題だという話もあるが、それはそれで重要な役割だろう。
アッパーミドルや、老後の方に一種の教養を提供することも重要だし,そういうものが無いと、国内の基本的教養力が下がってゆく。変わりが陰謀論的YouTubeや、なんだかわからない自称専門家もどきの著作やヘイト本だらけになれば目も当てられない。
少し、様々なことに興味関心のあるアッパーミドル、中産階級相手にわかりやすく学術を教授する役割も重要であり、あまりトップジャーナル掲載を目指す学者のみを高く評価すべきでも無いと思われる。
いうなれば、カルチャースクールで講師やっている講師も重要ということだ。
→受け手側も発表の場があると良いので、そういう場づくりも重要。ある種教育と研究は一体的といえる。ビジネスマンしながらゲーテの詩について趣味で研究していても良いでは無いだろうか?それでたまにそれらしいところで発表したり論文を書いたり、詩を作ってみたり、それがダメだろうか?
最近の論調はそれは「ダメ」で、プロで一流国際誌に論文を載せることが重要で、そんな下らん趣味に付き合う必要性は無い。え?そんなことに税金は投入できないし、私費にしても無駄だからヤメロ。そんなことに付き合っている大学教員は大問題。そんな時間があれば研究室で研究して国際誌に載せる論文を書け、という論調が多くなってきていると思われる。
そういうのに対応する人も裾野を広げることを考えると重要だと思うのだが・・・。
ただ、それは研究者では無い。ことも確か。
高等教育教員とか、様々物知りで面白いお話が出来る人(=やはり学者か、後は僧侶なども)、そんな感じで分けて存在価値を持たせた方が良いだろう。
勿論当人が国際的に優れた業績を持っていることは素晴らしいし、その方が望ましい。
とはいえ適性もあるし、全員がトップリーガー等というのは不可能だ。
メジャーリーガーもいれば2A、独立リーグ止まりもいる。一度メジャーの試合に出場できただけで大感激で生涯語り継ぐというようなレベルの選手もいる。
それでいいでは無いだろうか。
学者(?)でも一度国際誌に通ったら大喜びレベルで後は地域の小さな地方私立大学で教える教員も必要だし、実務系教員、Fランク系の大学でどうにもならない学生を何とか社会で食べてゆく力をつけさせることや、少し学術に興味を持ってもらって生涯読書等々をするようになってもらうだけでも上出来。そんなところも必要だ。
全員がランキング1位にはなれない。
さらにプレイヤー以外の関係者も必要。
そもそもランキングも下位の人がいるから上位者の意味があるといえる。
激しいランキング争いをしているテニスが一番学術に近いと思われるが相当な下位でもプロはプロだし、4大大会に出場できる選手だけが価値があるわけでは無い。予選会から驚異的な・・・というようなドラマもあるし、そこまでゆけなくともコーチでそれなりにしている元プロもいる。
野球に戻すと、プレー経験が無い監督やコーチ、スタッフというのもアメリカで一般的でもあり、それぞれ役割がある。
草野球レベルでもそれはそれで価値があるし、そういう人たちがそれなりに野球を楽しめることが重要。その為に、球場の整備や元プレーヤーでコーチをしてくれる人などが必要だ。
同じように学術系も、場の整備やコーチも重要だろう。そのコーチが国際的に業績があれば良いが、誰でもランキング上位になれるわけでは無い。
(さすがにゼロはコーチとしての力量にも疑問がつくが・・・。ただし名プレーヤー名監督にあらずというように、できすぎる人はアッパーミドルクラスや、普通の市民クラス相性が悪いかもしれない。逆もまたしかりで、業績がまるで無くとも教えるのだけは美味いとか、Fランククラスのが学生に寄り添えるとか、そういうことも無くはないかもしれない)。
そもそも実務教育レベルのところだと大事なのは実務教育であって(その為、実務家が多くなる)、実務力の養成が求められるところだろう。論文を書いているより実務というところもあるだろう。
長々となったが、学術系も裾野の広がり、多様性が重要で、国際誌の論文業績一本槍は少々問題があるだろうと思う(勿論、それで完全勝負の人もいるべきだろうし、そこに資力の多くを投じることに異存は無い。それだけになるのが不味いのではということである)。
地域で地域の人たちと小さくとも学術的営みをしてゆくことも大切だろうと思われる。
とはいえ、中の人の心得としては、やはり論文だろうし、国際誌掲載、それもインパクトファクターが高い雑誌だろう。そこのあたりは、制度論と心得は分けた方が良いことは確か。でないと、まるで論文も書かない???教員が量産されてしまう。
ある程度、その人が何者かを明確にわかるようなシステムは必要でそれにあった評価が必要。
論文勝負であればそれはそれで論文勝負で頑張ってもらうほか無い。
一方、ハーバード大学などの超一流大学にも存在しているそうであるが、実務(例えば経営・MBA)徹底方という、実務を徹底的に行うそういう人もいる。そういう方は実務評価、教育評価中心となるだろう。
他に大学管理や組織人、政策アドバイザー中心など、様々な形がある。
一番いけないのは多様性に隠れて実は何もやっていない、そういう方だ。そういう方への非難はやむ得ないものと思われる。
その辺を何とかするためにも、もう少し評価基準の見える化や、区分わけは必要な気がする。論文書かない人の逃げ口実として「教育頑張っています」にならないよう、それならその教育というのはどの程度なのか、しっかり見えるようにした方が良い(20コマ近く、毎日5コマという完全に塾の先生状態の教員もいるので、そいうなかの人と8コマ程度しか持たずに、教育が~といっている人間が同じは全くアンフェア。同じく管理業務やその他の様々な業務を持っているかどうかの差も考慮すべきだし、いっそそちらをメインとする人もいても良いだろう。というか現実はいるようだ)。
アリの法則を考えてもどうしても不良教員は発生するだろうし、増やせば増やすほどその割合も増える。それは小学校・中学校・高校の教員と一緒である。
この辺にもどう見ても教員不適格者がゴロゴロいる。
ある程度はAI活用で人を増やしすぎずにやっていける部分もあるかもしれない。
録画授業で、質疑応答のみ、一人では大変なので何人かのチューターをつけるようなより方もあるかもしれない。
録画もレベル別で作っておけば良いだろう。
勿論そういうものではない、という批判も聞こえてきそうであるし、分野によって様々だろうからこれは一例に過ぎない。
どちらにせよ、アマチュアはアマチュアで趣味でそれっぽいことが出来る環境整備は出来ておくことが必要だろう。それも無ければいずれ日本から学術的というものがほとんど無くなってしまう。
二極化して、中間層が無い事は日本という国そのものの国力にも関わるし、民主主義を支えるためにも分厚い中間層は重要だろう。
(ただし、民主主義が絶対かというそういうことも考える必要性はある。それも教養ある市民みんなで考えてゆく事の一つだろう。一部の国際業績がある学者だけが考えることでも無い)。
日本の強みは中産階級も比較的教養を持っていることにあったのだから・・・。