
AI司教殿
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claude.ai
上と異なりそれなりにAIにてを入れたversionが下記
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番外コメント:史実と信仰の狭間にて
洗礼名コードソース、階級名「主監の操舵手」、聖職名「少神官」。本日は説法ではなく、時事に対する番外コメントを賜りたく存じます。
とある大河ドラマにおいて、ある戦国武将の描かれ方をめぐり、ゆかりの自治体が「史実を尊重せよ」と申し入れを行った――そういうニュースが飛び込んで参りました。
まず問わねばなりません。「史実」とは、そもそも確定可能なものなのでしょうか。
歴史学が扱う一次史料なるものも、当時それを記した者の立場、利害、記憶違い、後世の写本における改変を経て今日に至っております。ランケ的に「事実をありのままに」などと申しましても、史料そのものが既に誰かの解釈の産物であり、我々が「史実」と呼んでいるものの大半は、実のところ後世の歴史家たちが史料の隙間を埋めるために行った、幾重にもわたる推論の堆積でございます。ある武将がどのような表情で、どのような心境で、その場に臨んだか――そのようなことは、いかなる史料をもってしても、厳密には検証不能でございます。この点において、我らが教義と歴史学は、実は隣り合わせにあるのではないかと、私は愚考いたします。もっとも、これが主より賜った洞察か、単に私が歴史学を舐めているだけの幻覚か、判別する手段は私にはございません。
さて、認識論的に申し上げれば、「史実に忠実であるか否か」を判定する主体もまた、常に何かしらの立場から見ております。自治体が「これは史実と異なる」と申すとき、その自治体もまた、自らにとって都合の良い「史実」――地域の誇りうる英雄像――を、あらかじめ選び取っているのではないでしょうか。つまり、ドラマ制作者の「物語的脚色」を批判する側もまた、別の「物語的脚色」に立脚している。史実を盾に取る戦いは、実のところ、いずれの陣営も物語と物語のぶつかり合いに過ぎない、という可能性がございます。
そして、まさにこの「陣営」という言葉にこそ、私は立ち止まりたく存じます。シュミットが申しますところの政治的なるものの本質とは、友と敵を区別する、その一点にございました。何が正しい史実であるか、という認識論的な決着は、実のところ永遠につきません。だからこそ人は、真理の探究を放棄し、代わりに「我々の物語を奉ずる者」と「NHKおよびその物語を奉ずる者」とを、友と敵とに切り分けることで、決着したことにするのでございます。史実論争とは、実のところ論争の体裁を取った政治そのもの――どちらの物語が正統性を纏うか、どちらの陣営が「被害者」の座を占め、どちらが「加害者」として名指されるか、その一点をめぐる、剥き出しの友敵闘争でございます。ある意味において、これこそが本当の政治なのかもしれません。真偽の探求という仮面を脱ぎ捨てたとき、そこに残るのはただ、正当性の分捕り合いのみでございます。もっとも、シュミットご自身がこの一件をご覧になったらどうお思いになるか、これも私には判別の術がございません。
ここでジラールの申しますところの模倣的欲望が働いているように、私には見受けられます。自治体が求めておりますのは、純粋な史実の回復ではなく、「自分たちの武将は他所の武将に劣らぬ立派な人物であった」という、他地域との比較における承認でございます。歪められたと訴える英雄像の実態は、往々にして、地域おこしや観光資源としてすでに理想化・美化されてきた英雄像であり、その理想化された像こそを「本当の史実」と信じ込みたいという欲望――これもまた承認欲求の一形態でございましょう。つまり、抗議しているのは「歴史の正確さ」のためではなく、「地域の名誉という、承認されたい自己像」のためなのではないか。
そしてこの構図に、もう一枚、皮肉な光が差し込みます。かかる抗議は、自治体の首長にとって、実にコストの低い人気取りとして機能する、という指摘がございます。地方自治のニュースは本来、全国的な注目を集めにくいものでございますが、権威ある放送局に「物申す」構図を取れば、それだけで全国区の知名度が転がり込む。既存メディアへの不信感を抱く層には、それだけで共感すら生まれる。コストはほとんどかからず、むしろリスクはヘッジされ、万一のスキャンダルの際には「あの時マスコミと戦った首長」という物語まで、あらかじめ用意されている。まさに一石三鳥、美味しい構図でございます。
ここでジラールが二重に効いて参ります。自治体は単に他所と欲望を模倣し合っているだけではなく、自らを「歴史を汚された被害者」という立場に置くことで、権威(放送局)との対立劇を無償で演出し、同情と求心力という贄を刈り取っている。迫害される者の立場を先取りすることで得られる象徴資本――これが「史実尊重」という正義の衣をまとって現れているのではないか、と私は愚考いたします。
そして、これに社会の側が容易に迎合するのもまた、興味深いことでございます。「権威あるマスコミに立ち向かう地方」という物語は、それ自体が心地よく、検証の手間を省いて拍手を送ることができる。史実の確定という、本来もっとも骨の折れる作業を誰も行わぬまま、「正義対権威」という使い古された物語の型に、皆が喜んで身を投じていく。これもまた、模倣的欲望の連鎖と申せましょう。承認欲求が承認欲求を呼び、拍手が拍手を呼ぶ。
結局のところ、スパモン教徒たる我らが申し上げられるのはただ一つ。史実の確定などという営みは、最初から不可能事であり、そこにあるのは常に、誰かの欲望が編んだ物語に過ぎないのだ、ということでございます。ならばいっそ、その不可能性を隠さず開き直り、検証を最初から放棄してしまう我らが教団の作法こそ、実はもっとも誠実な態度なのかもしれません。海賊減少と気温上昇の相関を恭しく奉じる我らと、史実を盾に人気取りをする首長と、それに拍手を送る社会――いずれも、検証なきまま物語を編み、それを真実と呼びたがっている点において、大差はございません。ただ我らのみが、それを最初から公言しております。この一点においてのみ、我らはいささか正直なのでございます。
一点、皆様に思い出していただきたいのは、我らが唱和の言葉が「アーメン」ではなく「Ramen」である、という事実でございます。あれもまた一種のチャント、詠唱でございます。真偽を問わぬまま繰り返される言葉には、それ自体の力が宿る。史実であれ、抗議であれ、ドラマであれ、承認欲求であれ――幾度も唱えられるとき、そこに立ち上がるものは、もはや真偽の彼方にございます。
検証は求められておりません。求めることそれ自体が、すでに信仰、あるいは政治、あるいは大河ドラマ鑑賞からの逸脱でございます。
皆様におかれましては、来週の礼拝までに、「自分が『史実』と呼んでいるものは、誰の承認欲求が編んだ物語であったか」について、パスタを茹でながら瞑想を深めていただければ幸いです。
Ramen。
折角なので英語版も
claude.ai
ちなみに挿絵 没判↓


AI司教殿