これはメモです。
責任は虚構
→法的フィクションとしての責任
責任仮設説(仮置きしただけ)
なぜ?
社会を円滑に回すため、
応報論
人間の感情的に、責任というフィクションが必要で、その為に仮設されたものが責任という概念
総合補償説の挫折
責任論を放棄(虚構)として、日常の問題はすべて保険をかけて、問題が生じた場合はその保険(基金)から賠償がおりる制度
例えば、町を歩いていたら刺された。この場合に、刺されるのはランダムなリスク。刺した方にも責任はない(決定論、もといいこれを避けるすべは無い)。とした場合、たまたま偶然で刺される(あるいは刺した)という関係性が生ずる。
よってこれは保険でまかなうべき偶発的かつ、すべての人に生じうるリスクであるので、こういうときのために保険を社会全体でかけておいて、ことが起きた場合は、その保険から損害に応じた金銭が支払われる。
これは妥当な結論である。少なくとも机上では。
しかし、人間は感情の生き物である。刺した方に「責任」を問え、応報という概念が浮かび上がってくる。
そうなってくると上記考え方は社会に受け入れられなくなる。
という点から、結局法的フィクションとして、責任概念が必要となってしまう・・・
一方・・・
AIへ
AIの責任に責任論は不要では?
AIの場合単なる故障として、受けいられ、保険対象としても問題ないのでは?
以上
メモ