先日獺祭を飲んでみました。
調べると、「獺祭 純米大吟醸 三割九分」はある種の究極点のようだ…
ということで、また村井さんへ…。やっぱりありました。
三千円しない程度である種の究極を味わえるということで、ここは買ってみるしかないでしょと購入。
つまみはチーズも良いとのことだが・・・・
一方↓こちらでは、コンビニで購入可能なつまみの紹介もされている。
で、さすがある種の究極箱も入っている説明も立派(当たり前)↓
ただし、少し気になるところが。
今の流行なんだろう。
手作りというところ、機械否定的な文言が目立つ。
その反面、遠心分離機の導入などちゃんと最新鋭にも目配りはしている。
要するに究極だけあって、機械でできない人の手によるものとハイテクの融合といいたいのだろう。
ただ、徹夜で社員を働かせていること等ブラックでは?というところ誇りとしていることは気になった。
「酒造りのために持っている技術は機械で代替できるかも知れません。しかし(中略)天文学的な価格の機械が必要になります」と解説されているあたりよくある「機械より人の方が安い」という議論のような気がした。PRであることは承知なのだが…。
熟練の技術が必要。
職人には相当の厳しさが必要であること。
結局ある種の究極は、相当の無茶とこだわりがないと不可。
この辺を考えると仕方がない点だろうし、社員はきっと誇りを相応の収入・待遇なんだろうと思いたい。
流行もあるだろしPRとしてこういうものが効くのだろう。
なんだか日本の嫌なところがすこし垣間見えた感じ。人を酷使するM気というか、購入者側のS気というか、「人がヒーヒー言っていることにある種の価値を見いだす」という…。
単に感じただけで、それは単なる勘違いであって欲しい。
そういう意味で↓もクリエイティブ系に関してだが興味深い。
博報堂関係ということでライバルではあるが電通の高橋まつり氏の自殺に繋がるような典型的な「量」と「スパルタ」、「クリエイティヴな世界への 甘い幻想を払拭」というあたりから「電通:鬼十則」は目の前だろう。
参考↓
記事自体は極めて真っ当といえるだけに余計といえる。
現実的に才能の無いところで、流動性も発展性も無いところにこだわっても詰むだけ。
ある種天才という言葉が逃げなのはそうだ。だが、多くの一般人がついてこられないレベルでの話であるし、そういう逃げもある程度は容認も必要だろう。あの人は違うのだという…諦めや慰めも必要だろうし、あらゆる人間がトップに立てるわけではない。
落伍者も落伍者である種の価値はあるし、大勢の落伍者が少なくともある一定の幸福は持ってゆけるような社会でなくては、結局その社会は崩壊するだろう。
少なくともある種早めに撤退はできるようになっていると信じたいし、その時に「才能」という言葉は使っても良いだろう。どうしても向き不向き、才能(努力することも含めて)、遺伝という部分は関係する。それを「量」で埋めるのは限界がある(ある一定、普通のサラリーマンレベルなら大抵何とか量でなるはずだが…結局この量で戦うから潰れる…)。
なお、「量」の勝負はAIにほぼ確実に勝てないことも事実ということも認識しておく必要性もあるだろう。
最も「量」がないとそもそも「質」は出せないし、「量」なしで最初から斬新な何かを出すことはまずあり得ないので、その辺も難しいが…。
(とシュミット系のデフォルメ化すると「所詮人生など殺し合いに過ぎん」的なことを好む、新自由主義的人間が書くのもどうかと思うところもあるのだが…。いや逆にこの認識なので、よりこの手の認識になるのかも知れない。勿論自身が敗北者達の方だからというのもあるかもしれないが…。敗北者側でもそれなりに暮らせる日本にはそういう意味では感謝だ。そして、さらに下を見れば…という、そういう下を見て歩こう的な部分もどうかといえる。相対的には自身も相当恵まれており、ここでブログ書いていられれるほど上方に入るともいえる。結局どのレベルの敗北者かという問題だ。この辺は中途半端な努力?も実際はしたかどうかという者の愚痴に過ぎないかも知れない)。
また、「クリエイティヴな世界への 甘い幻想を払拭したい」という前提はどうだろうか?一般論として、「クリエイティヴな世界」で生きてゆく(プロ)は相当たぐいまれな才能と努力、運どれも必要と思われている分野ではないだろうか?
文字通りの一握りの天才のみが生き残ることのできる世界と。
息絶える前に懇切丁寧に落としてくれるならばそれも優しさだろう。そういう意味では授業等で「スパルタ」方式でふるいにかけること自体は良いだろう。
で・・・けれどやはり根底に「人がヒーヒー言っていることにある種の価値を見いだす」という感じがする。すなわち才能で(?)スイスイ仕事している人が嫌いで、ヒーヒー一生懸命、そういう姿勢が評価される…そんな気がしてしまう。
そりゃ一流線は間違いなく壮絶な努力もしているだろう。我々一般人がとても及ぶようなものではない努力を。
ただ、それはおそらく一流線の人は見せる気も無いし、努力との認識も薄いかも知れない。それでもそういう社会なので「努力努力」といったりもする。
それはそれで良いのだが、マーケティング的に「ヒーヒー言っていることにある種の価値」がでているのはどうだろうか。
結局、追い詰められる人がでるだけだし。