中傷と表現の自由問題を考える

中傷と表現の自由問題を考える・・・www.msn.com

 

 今回は少しエッジの効いた問題を考えたい。

 上の記事によると

 「2019年4月に東京・池袋で発生した自動車の暴走事故で妻子を亡くした松永拓也さんが自身のSNS上で誹謗中傷された事件で、警視庁が侮辱容疑で愛知県に住む20代の男を任意で事情聴取したことを報じた。

 略

大阪府知事で弁護士の橋下徹氏は「(SNSの)匿名性は重要だと思います。いろいろな真実を公にする際に、特に権力チェックなどをする際に実名を出してしまうと圧力が加わることもありますし、匿名性は重要なんですが…」とまずコメント。

 その上で「言論の自由にも一定の限界があって、事前に規制すると、また表現の自由の畏縮が生じるので、後で裁判でこれはダメだよとなった時には、これは厳罰ないしは民事的な賠償額の増額でペナルティーを課す。事後的にもっと大きな制裁を加えないといけません」と続け、「今の日本社会のSNS規制は事後的なペナルティーもすごく弱いんですよ。僕はそこはキツくすべきだと思います」と話していた。

 今回の事件では、今月11日に松永さんのツイッター投稿に対し、匿名のアカウントから「金や反響目当てで闘っているようにしか見えませんでした」などの書き込みがあった。警視庁の捜査で20代の男が浮上し、19日に事情聴取。男の自宅を家宅捜索した。」

 

 とのことである。

 

 ある種おなじみの中傷と表現の自由の問題といえるだろう。

 まず、表現関係は傷つきやすい自由であるので、規制はかなり緩いほうが一般に望ましい。

 それは事後であっても同様だ。

 規制は事前にしても事後にしても表現萎縮効果はあるだろう。逮捕されうるだけも十分効果はある。むしろこのような一般人の時を活用して批判を封じ込めるような方向はよろしくない。

 「好きなことを言ってよいよ…その代わり責任はとってもらうからねクックッ…」といった独裁国家系でのAAがかつて2チャンネル等でもあったが、事後的でも厳罰に処されるとなれば、それは表現の自由に関しての重大な問題になり得、自由と責任などという人もいるが、本来責任をとらされるような状況であればそれは自由とはいえない。

 何か言うと責任をとらされる社会で、人は好きなように発言不能である。

 実際、現在一部界隈と一部界隈で政治的発言に関して訴訟合戦をしている。あちらは顕名でだが。政治的あるは何らかの事件へうかつに発言すると訴状が飛んでくる状況は望ましいとは思えない。何を持って度を過ぎるかは常に相対的で不確かである以上、実行行為に関連する(=業務妨害)以外は緩やであるべきだろう。

 偽計含む業務妨害系は的確に処罰すべきだ。さすがに○○に爆薬を仕掛けた…というようなものは許すべきではない。そのようなものは重たくして良いと思うが、何らかの書き込みに対して事後的であっても処罰を非常に重くすることは問題があると思う。処罰があるだけでも十分だろう。

 裁判でダメとなった時点でほとんど日本における社会的制裁はすさまじい、それで十分であり、損害賠償額を大きくするなどの意義は低いだろう。

 そもそも評論的に事件に言及しただけで捜査されうる、相手が誹謗中傷と感じたということで捜査される、そんな世の中では極めて自分の身の回りのことや知っている人間に対してしか言及もコミュニケーションも不可能になる。

 爆発点は人によって異なるし、ある言動がどのように世の中で拡散し影響を及ぼすかは何者にも想定は難しい。何気ないことでも大きな問題になり得るし(「日本死ぬ」、がよい例かもしれない)、渾身の訴えもどこにも響かないかもしれない。

 

 訴訟リスクを考えるならば何も言わないことが一番よい。

 おそらく本件も。「SNSに下手なことを書くと訴えられるから、書き込みには気をつけなさい」という文脈で教育には活用されるだろう。下手をすると「書き込むべきではない」という風に指導されるかもしれない。

 それもわからなくない。私が教師であれば、学生にそのように指導する可能性もある。それは自分や自分の組織に影響を避けたいというリスク回避も含めてだが、とにかく学生が下手なことを書いて炎上することを避けるためには、一律書き込むな!又は少なくとも社会的話題に関しては関わるな、ということにならざる終えない。

 それは、社会や政治に興味を持ちましょうといっている筋からしてよいことなのだろうか

 ※私自体はその筋の方々の主張は問題があると感じているので、必ずしもそのような主張に賛同するものではないが。

 

 今回の「金や反響目当てで闘っているようにしか見えませんでした」等というツイートが評論に当たるか、あるいは単なる侮辱、誹謗中傷となるかは、捜査と裁判の結果によるだろうし、おそらくある程度つきまとい的に攻撃し続けた結果と思われるが、このような評論的表現も含むものも許されないとすると問題は大きいだろう。

 →「金や反響目当てで闘っているようにしか見えませんでした」一つでアウトということはさすがにないと思っているので、度を超したつきまといや再三攻撃的書き込みをしていたと考えている。もし当該ツイート一つであれば、さすがに単なる個人の感想で、それすら表明不可能となるとかなり問題があるだろう。

 →→とはいえ、教師的にいうならこの記事を示しながら「金や反響目当てで闘っているようにしか見えませんでした」とツイッターで書いても捜索されるので、こういうことは書いてはいけません!と指導したくなる罠。

 (少し模擬応答を。S=生徒、T=教師として模擬応答を)

 S:「先生、では何なら書いてよいのでしょうか?」

 T:「うーん、相手のことを考えて、これは言われたら警察に駆け込むなということは書かない方が良いね」

 S:「これは言われたら、といっても何ならいいんですが?人にって感じ方やシチュエーション等でも異なるかと?馬鹿、といっても良いときとダメなときもあると思いますが」

 T:「それはケースバイケースだから難しいね。とりあえず、自分が直接関わりのないことに口を出すのはやめた方が良いよ。相手が誹謗中傷と考えれば警察に突き出されるかもしれない」

 S:「ということは、先生は自分の意見は素直に表明しましょうというのに、実際は忖度をして、世の中で当たり障りの無いことしかいってはいけませんとおっしゃるのですか?」

 T:「自分に直接関係のないことに関してはそうなるね。利害関係がないのにも関わらず、あえて訴訟リスクを犯す必要性は薄い。言及必要性が薄い以上、不必要なリスクを冒すべきではない。」

 S:「民主主義下においては広く社会問題に関心を持ち、様々な社会問題を自分事と考えるのがよい態度と先生から教わりましたが・・・」

 T:「確かにそうだが、裁判沙汰になるほどのことはよほどの覚悟が必要だ。この人がどの程度でこの文章を書き込んだかはわからないが、なんとなしに書き込むことは危険があったと、そういうことだ。関心を持つことと、いい加減な意見を述べることは違う」

 S:「本件書き込みは、背後に政治性や利己的な一面を指摘するものであり、そのようなところはあらゆることで背後にありうることと思います。それの指摘でもダメでしょうか?例えば、目立っている人に対して政治家なりたくてでは無いか?と評論することはそれが真実に近ければ近いほど、本人を激高させると思いますが?」

 T:「結論からするとやめた方が良い。まさに背後に何らかの意図を抱えている人のほうが激高しがちだが、それはなんともいえない。政治家になる気が全くないのにそう言われて心外だということもありうるだろう。当たっていても外れていても、どちらでもよい結果は得られず、結局その後の結果論で未来の側から見て、歴史的にその行為が政治家になるための行為であったか、そうでなかったかは判断される。その評価は未来に任せるべきで、きみが当該人間が政治家にどうしてもなって欲しくないというそういう場合以外はやめた方が良いだろう。勿論きみが過去に危害を加えられた相手であるとか、何らかの問題を知っていればそのことを述べることは許される可能性もあるが、どのみち異なる文脈であれこれ出すのはよろしくないだろう。」

 S:「と、なりますと社会問題に関心を持って意見を交わすことはできないと?」

 T:「インサイド限定、身内限定ということとなるね。本件のように公衆にさらすのはダメだ。ここで議論する上ではよいが、外に出してはいけない」

 S:「密教みたいですね」

 T:「そうだね。公論などというものは実際はありはしない。あくまでも表現の自由は身内で話し合っているときその時にしか完全保障されず、外に出れば、ある程度の制約が生じる。そもそもあらゆるものの自由、等というものは達成不可能で、結局そのバランス制約が必要。表現の自由内心の自由等々に関係する部分は絶対的に保護されるが、公衆むけにはある程度制約があると考えて方が良い。きみが公表するつもりがない、日記に何を書こうが自由だが、公表して他者を罵倒するとなると、警察のお世話になる可能性が高い。そういうことだ」

 S:「ということは事実上、公表して社会意見は言うなということでしょうか?」

 T:「そこまでは言っていないが、まあ、ちゃんとゼミやインサイドでもんでから、これは問題ないと判定された後、公表することが望ましい。その為に学術団体などもあるし、そこまで行かずとも勉強会は様々なところである。何らかの団体を通じることで、少なくともその団体がOKするような表現となるし、ある程度の社会性も容認されてゆく。団体ごと不適切とされることもあり得るが、個人でよりはその個人への風当たりも少なくなる。自分では名案だと思っても、回りに話したらそうでもないということはよくあること。まずインサイトで意見をもむことが重要だと思うよ」

 S:「・・・(結局、自由に意見を言ってよいというのは幻で、みんなに忖度しながら意見しないといけないと言うことか)」

 T:「うん?何か意見はあるかね?)

 S:「(ここでこれ以上先生に刃向かう意見は適当では無いな。下手をすると成績を下げられてしまう)いえ、先生おっしゃるとおりです。表現の自由があるとはいえ、自分の思ったことをそのまま公表してよいと言うことでは無いことがよくわかりました。意見発表前には必ず、先生などのご意見をもらってからにいたします」

 T:「素晴らしい。くれぐれもSNS等に社会問題で先生の意見をもらう前に自分の意見を載せないようにするんだよ。警察が飛んでくるかもしれないし、そうすると、学校にも迷惑がかかるんだ。あ、勿論個人的なことはよいよ。勿論それも気をつけないと今度はプライバシーの問題等々他の問題もあるけど、今日おいしいスイーツを(写真)程度であれば、まず誰かをきづつけない・・・正確には飯テロとか言われるかもだけど、まあ許容範囲でしょうというものはよいと思うね。とはいえ、SNSに何かをあげることは問題も多いので迷ったら自主判断せずに先生に相談してね」

 S:「(ちぇ、結局それらしいことを言って、結局ほとんどSNS管理じゃないか。何かあったら、なんで先生に相談しなかったんだ!というに決まっているな・・・)あ、はい。ありがとうございます」

 

 といった感じか。結局SNSで何か言うな、とかく社会問題は。ということとなるほかない。

 それでいいのだろうか。いあや、それでいいのかもしれない。誰もが気軽に社会問題に関して情報発信をすると言うこともある種の問題があるののかもしれない。

 

 どのみち、訴訟リスクというだけでも大きな抑止力がある。それの額を引き上げてもそれほど抑止力が上がるとは思えない。リスク込みで発言するという認識は広く社会に浸透させても良いかもしれない。

 述べた以上はある一定限の責任は問われうる。それの認識をしっかり持ってもらう必要性があるだろう。が、果たしてそれは自由な意見公表を妨げるのみで、よい意義は生まないのでないか?何人たりとも傷つけない、等というものはほぼあり得ず、それでは非常に当たり障りの無いこと以上は述べることが難しくなる。インサイトとアウトサイドを分けるのは通いと思うが(インサイトはかなり自由に、アウトサイトはかなり不自由に)、それはインサイト内での権威主義にならないか。権威者がOKといわないものは外に出すことが出来ない、それでいいのだろうか。

 

 よく考えてゆく必要性があるテーマだと思われる。

 

 最後に訴えられたくないので。

 本稿は池袋事件そのものに言及するものでも、橋下弁護士の見解に異議を唱えるものではなく、単なる評論であり、万が一当事者より誹謗中傷に当たるとの申し出があれば直ちに謝罪と当該部分の撤回をいたします。

  

 

 ペンギン