あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
新年早々読み終えた本は
こちら
何というか、慎重な論考スタイルの「死とは何か」を読んだ後だけにこの手の自己啓発系の断言系は気になるところ。
結局、アメリカスタイルらしい、そしてある種のある種の生き方のみを肯定する&シリコンバレーでは…という、この手のもののよくある系。
その辺はさておき、基本ベースは「人間はただの機会だ、死に深淵などない」ではないが、「自分は自分、他者は関係ない」、「自分がコントロールできることに専念せよ」といういつもののものをいろいろと上乗せしているといえる。
一種の相対主義で、物事はある種捉え方次第という、ある種お馴染み。
アフォーメーションやビジョンを描くなどある程度オーソドックスなものを旨くまとめている。あまり日本ディスりがない点は良い点か。
向こうのことを肯定的に書いていますが、アメリカも大変ですからね…。決して楽な社会ではない。また、それが正しいかどうかは別問題。文中にあるようにとにかく、主張することの重要性が高い社会で、まさに自己主張しなくては埋没してしまう。それをグローバルスタンダードとはやし立てる人もいるが、果たしてそうか。その辺はこちらも参考↓
この辺は、ある種振り子のようにふれるところで、片方に行き過ぎるとまた片方に戻ってくると。この手の外向系が優位の社会になると当然振り子のように、その反対の意見も出てくると。
それで、結局この手の超ポジティブ系は超ネガティブ系とコインの裏表
ある種こちらともコインの裏側なのだ。
結局主観主義。どのようにでも捉えることは出来るし、「生まれてきたことが間違いだった」と捉えても、「生まれてきて感謝」と捉えてもどちらも主観。そしてその先も、ある種前者はは投げやりな、「生まれてきたことが間違いであるからこそ、何でも出来る」という方向と「祝福されて生まれてきた以上、何でも出来る」とい結論部分でクロスする。
どちらもある種の揺るぎない鋼鉄。他人は関係なし、どう見られるとか、世間体など関係がないといえる。
ある学者が、意識は孔雀の羽のように過剰な進化のたまものなのかもしれないという趣旨のことを家いていたと思うが、そうなのかもしれない。
シオランを引くと(『生誕の災厄」出口裕弘訳 紀伊國屋書店、旧版 1976年)
「自意識は肉に刺さった棘以上のものだ。それは肉に刺さった匕首だ」(『生誕の災厄』p.67)
と、これほど明快なものもないだろう。
ちなみに
「堕落した動物、動物の屑というものを想像することは不可能だ」(『生誕の災厄』p.73)
という一文もある、本件につなぎ合わせると種面白いかもしれない。
少し「死とは何か」の「自殺」の講義と合わせると
「自分が現にあるとおりの者であるゆえに自殺するのはよい。だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺べきでない(『生誕の災厄』p.128)が妥当だろう。
結局、進化しすぎた自意識こそ、そして他人を(そしてその他人はあなたのことはなんとも思っていない)考えすぎるからこそ何もできなくなる。
究極はやはり「どんな専制君主でも、自殺を思い定めた名もない男が享有するほどの権力を、かつて手中にしたことはあるまい(『生誕の災厄』p.137)だろう。
ある種最初からいずれ死ぬ故…というテロリストの論法で来られればそれは自分が行うことに関しては、いかなる専制君主をも上回る…
とこちらはいわばダークサイトでの書き方になるが、ライトサイドになると、本書になるだろう。実は裏表だとよく分かる。
極めて宗教色があるのもアメリカ系らしいといえる。ある種自分は神に祝福されていると思うことは、ライトサイドでの同じ考え方の転換だ。
脱線が多くなったが、本書は、加点法中心で、鋼の自己肯定感を生むためによくねられた本である。自己効用感や自己中、自己有用感との違いも十分に書かれており、この辺が曖昧な類書に比べてこの当りは秀逸で、何故自己肯定感が必要かということがよく書かれている。
自己肯定感とは少し異なるが、この辺も参考になるだろう
「無気力の心理学」
古い本ではあるが、今なお参考になる部分はあるだろう。
書き方含めて賛否はあるだろうが、全体的によくまとまっている。
また宗教化するビジネスという文脈から考えても面白いかもしれない。
とりあえず、あまり他人視点で考えても良いことだけは無いし、それで今度他人を恨みだしたり、被害者意識抜群でいつまでも何かを赦さないでいると自分にとってもよろしくないので、その辺はライトサイド的書き方とはいえ、基本間違ってはいないだろう(完全に評論家)。
最後いえることは、自分は自分だということだ。