変わりはじめると逆張りがでてくるという典型記事
まあ、「わかりやすく」という編集で、もう少し深みのことを言っていても強制的にある方向性のみの話になってしまっている可能性もあるので、話者の真意はわからないが・・・
提案型に切り替わるのがけしからんらしい。
それによると、提案型は、政権側にとって楽な相手であり、提案をつまみ食いされるだけだから提案など意味が無いそうだ。論者曰く
「「提案型」とは、一体、誰に向けての話なのか? 政府に提案を受け容(い)れさせ、「政権担当能力」を有権者にアピールするということか?
そのために、野党が限られた質問時間の中で、批判はそこそこに自分たちのプレゼンを優先させるならば、政府にとってこんなに楽なことはない。その提案を摘(つ)まみ食いする安定した与野党関係が機能する時、有権者は、政権交代の必要など認めないだろう。」
とのことだが、野党提言を受け入れ続けていたならば、与党の政権維持能力に疑問が着くどころか、野党のいいなり=政権交代して良くないか?となるはずで、批判ばかりしていても有権者へのアピールはできない。むしろこれだけ当方の政策が、反映されてます!とアピールするのが筋だろう。
どうも、55年体制思考により、野党はあら探し専門で良いという一定限度の認識があるのだろう。他記事でだが、まさに野党の方が気楽で良いという記事(産経さんだが・・・)があったほどだが、そうなってしまうのだろう。野党は何か政策を実現するものではないというのが日本における前提状況なのだろう。
が・・・
高齢者にはそれで良いかもしれない。現実、自民党の支持率は若者の方が高い。昔ながらの支持者にはその姿勢が受けるのだろう。しかし、批判ばかりする姿勢は若者受けはしない。それに対しては前提条件がそもそも違うと次のようにいう
立憲民主党会派は、政府提出法案に対して8割前後賛成している。
賛成していれば良いのだろうかというのはともかく、数字上では、批判ばかりしているわけではなく賛成が多いそうだ・・・
でその後
野党はそもそも、思想的に与党と異なるからこそ野党であり、政策面で対立するのは当然である。
と、要するに残りの2割は対立が当然であるという(と好意的に読むが、少し悪意的に読むと、政策面で対立するはずが8割賛成というのはどうなんだともいえる。だから、野党が弱腰になっているといいたいのかもしれない)。対立は当然として、一方的批判はどうなのだろうか。それに対しては
国会で野党議員も、いきなり激昂(げきこう)して批判を始めるわけではない。しかし、政府が回答になっていない答弁書を棒読みし続けたり、支離滅裂な言い逃れに終始するならば、追及の語調は厳しくなる。ところが、与党の答弁が継ぎ接(は)ぎされ、尤(もっと)もらしい形に編集され、それと組み合わされて報道されると、野党の質問は、何か理不尽にがなり立てているように見えるのである。
ということで、編集のせいでそのように見えているだけとのことである。
となると、以前の記事で指摘したとおり、無編集の国会をひたすら流す国営テレビが必要だろう。それが使命、という面白みも、何か編集もない、そのままのみを目的とするメディアだ
編集が悪いというのは、わからなくはない。が、それが提案型野党が悪いとのことにもならないだろう。
そして、若者に人気が無い最大の理由が、このパワハラ的・一部年配者には受ける、攻撃パフォーマンスだ。切り取りだというのはわからなくはないが、何はともあれ見せ場がこの手の攻撃になっている。それはパフォーマンスしている側もわかっているはず。これが若者に受けないし、批判ばかりという所の改善をしようという話いだと思っている。
そもそも55年体制からの脱却、政権交代ができるような緊張感ある政治をというのが平成の政治改革だったはず
批判なくして、いかにして社会が発展し、政治権力が健全化するであろうか?
政府は頑張っているのだから、みんなで協力しよう、というのは、無責任な疑似民主主義であり、主権者として、あるべき理想に向けて積極的に政治参加すべきである。
と55年体制以来の批判型野党※をお勧めするようだが、時代は変わっている。批判ではなく政権交代であり、批判して政治権力を健全化する(要するに補完する)のではなく、自分たちが変わってもっと良い政治をする、自分たちの政策を実現する、それが野党に求められるものであるはずで、与党の補完勢力として、批判を繰り広げて与党をよりよくしてあげることが野党の役割ではない(55年体制の中ではそうであったが)。
※最も文脈的にここは野党のことではなく、新聞のことだろうが…。野党をメディアが甘やかすからや与党の補完勢力化してもね…と思う。野党のことではないのかもしれないが、そうすると、結局野党はどうすれば良いのだろうか。途中から新聞やメディアの話になってわかりにくい。
「疑似民主主義に危うさ」というタイトルなので、最後の部分が主眼なのかもしれないが、誰に呼びかけているのかメディアであれば、それは問題だし。おそらく有権者になんだろう。結局批判をもっとしよう!というものなのかもれしれない。
が、批判が忌み嫌われ気味の今の世情はパワハラ、揚げ足とり、意味の無い苦行、難癖、クレーム、そういう中で建設性がまるで無い事に若手中心に嫌気がさしていることを忘れてはならない。
何をやっても批判ばかりだし、この30年間停滞しっぱなしで、建設的なことが全然無い。そういう世情を忘れてはならない。
批判ではなく、建設的な提案が求められるわけで、提案のかなに相手への批判がある分には構わないだろうし、我々の方が良い案がある!というものを否定しているわけではない。
俺の方がヨクできる!だからどけ!!ならばまあわかるが、55年体制的批判ばかりというのは、批判はする、でも行うのは自分ではないという、そういう身銭を切らない態度への批判だろう。
タレブの言い草もいろいろあるし、一概に身銭を切るというのも何を示すかというところもあるが、自分に不利益が返ってくる恐れがある中で行うことが必要であり、安全な領域から批判ばかりしていても仕方が無い。
相手の代わりにより良いことができること、それができなければ甘んじて批判を受けること、そいう前提で批判というかこちらが代わりに行う=提案・対案がないものは、意味が薄い。
なお
他方、所謂(いわゆる)モリカケ問題や「桜を見る会」問題などに対しては、批判や追及以外に何が出来るのか? 対案など出しようがない。ニュースを見て、「まだやっているのか」と感じるならば、それは、不祥事を起こし、しかも野党の質疑にまったく誠実に応じない政府与党の責任だ。
これは再三いわれた、悪魔の証明だ。疑惑に応えていないと言い立てて、怪しい怪しいと言い立てる。明確な汚職であれば、検察に任せる&与党にも危機感がでるだろう。そのような相手であれば、政権交代もたやすいし、国会で怪しい怪しいと言い立てることではないだろう。その戦略のために逆に辻本氏などの怪しいところも反撃される。まあ、それはお互いに国民のためでもあるので、それ自体は良いと思うが。
また、対案が出せないと言うがそうだろうか?このようなことが起きないシステムを提案することはできるはずで、野党の戦略としては、「疑惑の問題はあった」前提にしてしまってそれの防止策を淡々と提出することだ。与党がなかったとか、話を戻そうとしても、そのままあった前提で、「こういうことが起こらないようにしましょう」と進めてしまえば良い。
検察の捜査権限の強化や、政治介入を難しくする制度の提案、例えば通報システムや、政策相談以外に官僚との政治家の原則禁止、録音及び面談記録作成の義務付け、等々提案できることは数多くある。下手に抵抗するならば「ほうほう・・・やましいことでもアルノですかね?」と嫌みっぽく迫れば良い。
それも過去では無く、未来志向でこれから、という話ならば前向きで良いだろう。
悪魔の証明的な疑惑のなかったことを延々と証明させるような言い立てをするのではなく、前向きかつ相手にダメージを与えるやり方はいくらでもある。
あまり感心しないが、維新の文通費問題などが良い例だろう。
下手に抵抗すると、何かやましいことがあると!と批判するわけ。
戦術としてはこちらの方が高等。
批判ではなくやはり提案を。また、提案の中に相手への批判があって良いが、あくまでも前向き・建設的な内容も盛り込むことが重要。
野党に求められること&メディアや、有権者全体に求められているのは、建設的な提案である。
ということで、当方も身銭を切らずに第三者から好き勝手ばかりなので、たまには身銭を切るようなこともしないと!とも思う。
(勿論、とはいえ第三者的な批評もそれはそれで大事で当事者から一歩引いて評論することで見えてくることもある。ただ野党など当事者がそれではダメだろうと言うことだ)