マーク・フィッシャー 資本主義リアリズム

 こんな機能もあったので、使ってみました。

 今回の紹介は(て初めてですが)

 マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」

 自決したマーク・フィッシャーの出世作だ。
ジジェクとジェイムソンの言葉なのだが、すっかりフィッシャーの言葉ぽくなった、「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」でおなじみである。

 最近、民主主義陣営が権威主義陣営に押されている。しかし、どちらも資本主義をとっていることには変わりが無い・・・そもそも共産党と名乗るが中身は資本主義バリバリですという超大国も出現中であり、ますます「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像する」方がたやすくなってきた。

 

 そんな今年も、帯にあるようにわれわれの苦境は何かを考える上で適当な本。ただし、左派系かつ、解決策は???ではある。

 

 それでも見所は多数。何個かピックアップしてゆきたいと思う。

 

 まずは、フィッシャー本人の「新しいものを無くして文化はどれほど生き残ることができるのか?」p.12というある種の循環型社会への疑問である。エリオットを援用して「未来を消耗してしまえば私たちには過去すら残されない」p.14、や「もはやそれを鑑賞する新しい視線をなくしてその力を保つことのできる文化的オブジェは存在しない」p.14等々のマジックワードからはじまり、模倣作とリバイバル主義に支配されるようになった、現状の苦境を描き出す。

 そうそう、なんか最近過去作品のリメイクやなんかリバイバル系ばかりだなーという世相に刺さるところである。

 「新しいものは現存のものとの総合関係において自己を定義すると同時に、現存のものは新しいものに応じて自己を再構築しなければならない」p.14という通り、関係性理論にこの辺は飛べるだろう。

 中略させていただいて、ジェイムソン→この道しかない。という資本主義リアリズムの現状を示しつつ。外部をなくした資本主義、全人口の夢の世界まで植民地化したなかで外部はあるか。という問い、カート・コバーン(おそらくはこれは後にフィッシャー自身も)のデッドロック状態。反抗すら取り込まれるという状況。批判さえ取り込まれる。「成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることに過ぎないからだ」p.28と小路袋にはまった現状を上手く描いている。

 非常に第一章だけでも秀逸な作品である。

 

  2章にはいっても反資本主義がむしろ資本主義を補強するに過ぎないもの、「資本主義リアリズムに対してある種のカーニバル的なノイズ背景を形成してきた」p.41と指摘する。この矛盾をライブエイドなどの事例を通じて解明してゆく。根本的に反資本主義的行動は資本主義の増強または資本主義を前提、資本主義の中にいる・・・というある種いかに資本主義が強力になり、この道しか無くなっているか、それを示すものとなっている。

 

 3章にはいって、「資本主義リアリズムを文化だけでなく、教育と労働の規制をも条件づけながら、思考と行動を制約する見えざる結界として動くものだ」p.48とする。そのうえで、「資本主義リアリズムを揺るがすことができるのは、資本主義に、おける見せかけのリアリズムが実はそれほど現実的ではないことを明らかにするとだ」p.49とする。
 →「あたりまえという体裁を破壊すべきで、必然で不可避と見せかけられていることをただの偶然と明らかにしつつ、不可避と思われることを達成可能と思わせなくてはならない」p.50とする。
 ラカン等を取り上げつつ資本主義が持続可能という概念と矛盾すること、環境問題とメンタルヘルスという問題点を指摘する。さらに官僚主義
 これらを次の章からで分析してゆく。

 ここはある種、本書のキーだろう。


 4章は学生の再帰的無能感からはじまって、鬱病的快楽主義、「むしろ、快楽を求める以外何もできないというのが特徴だ」p.62という状況を解説する。ここからはドゥルーズラカンも出るし、ある程度の基礎知識が無いと難しいところもあるが、なかなか面白分析をしている。「市場型スターリニズム」p.65や「過剰接続のせいで集中できない」p.66という聞いたことがあるような無いような概念の素晴らしい説明があり、「この世代にとって時間とは、つねにすでに細分化されたデジタル状態で経験されるのだ」p.69といった解説は良くあるような無いような、どこかで聞いたような、無いようなこの辺の話を上手くまとめているので必見である。その上で、「ポスト識字的な状況」、成功したビジネスマンは失読症という読めなくなってゆく状況の解説もある。これは読書も廃れるわけである。

 その後、「リベラル共産主義者」の話とそこからこれが「いかに資本主義リアリズムが現在の政治的可能性の範囲を限定しているかが伺える」p.76としている。

 4章はこれぐらいで

 

 次に5章は、フィッシャーお得意の映画評論から始まる。この辺りは定評のある映画評論といえ、1995年の「ヒート」と1972年の「ゴッドファザー」の対比が素晴らしい。

そこから、柔軟性と速度が結局家族などもつことはできまいという絶望と一方でナニー・ステートが解体されるなかで家族の役割が重要になるは違反する状況を描く。

 この状況を「非長期」p.87というキーワードでまとめ、速度と柔軟性が現在では徹底的に重要になっている状況を示す。

 で、この状況はいつからかというと、1976年10月6日からとしている。

 さて、ここで前の章で省いた「ポスト・フォーデイズム」の話につながる。この辺はまた別な機会に他ともリンクしたいと思う。

 で最終的に精神病の話へと、「なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するかが説明されなければならない」p.99というこの手の系列らしい言説へとつながってゆく。

 

 6章はタイトルそのまま、全てが広報へと消えてゆく状態を描写する。

 ここでは「大文字の第三者」も登場する。

 すべては何をしているかではなく、どのようにイメージされるか、その状況とこの大文字の第三者を用いて興味深い考察がなされる章といえる。

 

 7章はもう語るまいと言う感じになるが、新しい記憶を作れない&夢作業のようなものが今の状況という分析がなされる。


 8章は、中心の不在である。これは日本だと「世間」という言葉が対応しそうだ。そう、どこにも責任者はいないし、大文字の第三者、世間が監視するが、それの実態はないともいえる。セントラルは存在しない…。

 映画評論も入り見所満載の章といえるだろう。

 

 9章はもうお腹いっぱいといった感じだ。おなじみのインターネットについての指摘などもあるが、メインは左派的な解決策部分だろう。

 

 訳者の「あとがきに代えて」もあり、一言で資本主義リアリズムをまとめているので、読む意義があるだろう。

 

 と後半になるにつれて雑になってしまったが、一回紹介としてあげておきたい。

 

 関係ない追伸:やはり書くといろいろとわかりますね。後半息切れしたし、丁寧な引用が欠けてくるし、理解していないところは書けない。大体理解したでは、引用も紹介も書けない。どこかの某書物で「おまえの頭の中が空っぽだ」と酷評されたライターが書いたような、「これは素晴らしい」とか「一読の価値がある」的な中身のないお勧め的なことを書いてしまう。たかが簡単な読書感想文というか、本の感想も難しいなぁと感じた次第。

 

 追伸2:デジタルの特性については本書でも明言されているが、このブログもそう。後で誤字脱字などを何度も直し…アーカイブにあれば前のversionも閲覧できるだろうが大抵はいつの間にか変わっていたり消えている…。

 デジタルデータはつねに可変的だ…。