ニック・ランド 暗黒の啓蒙書 

さて、前回、マーク・フィッシャーを取り上げたので、セットで(?)取り上げるべき

penginsengen.hatenablog.com

ニック・ランドも取り上げましょう

ということで、今回は暗黒の啓蒙書を取り上げます

結論ですが、あおりまくっている割に面白くなく、正直失望というところ。

また、訳者の五井先生が、訳者解説でぶった切りまくっているのが面白いどころ。何で翻訳したんだと聞きたくなるほど、ぶった切っており、序文の木澤さんとの対比も面白い。一応、新反動主義≒加速主義の中核的バイブルのはずなのだけれど。

 

 中二病感満載なはずなのだが、何かフィッシャーほどの破壊力は無い。一応、「新主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」に対する言葉として「ノー・ヴォイス、フリー・イグジッド」があるはずで、同じくこれは本書を貫くキーテーマになっているといえる。しかし、煽りすぎだといえるだろう。フィッシャーは、極論すれば失敗した思想家、敗北者、痛ましい犠牲者であり、自決したことを前提に哀悼的に書が読まれるのに対して、ランドはある種成功した(いや、成功こそがすでに敗北しているともいえるのだが)、黒のカリスマの代表書として読まれる。この成功した、黒のカリスマという煽りこそが、本書の価値をおとしめている。ウォーリック大学を追放された異端の思想家の書としてであれば、こうまで落胆することもなかっただろう。

 

 背景、要約は訳者解説を読めばとてもわかりやすくまとまっているので、そちらに譲ろうと思うが、どちらかという、この訳者解説の方が面白すぎるのだ。

 ランドを中途半端だと断じ、最後に「人間にとって度し難く真に暗黒なものであるウイルスの声に耳を傾けつつ、いまこそ私たちは、あらゆる統治から離脱すべきである」p.269へと続く一連の流れと参考文献は、本体よりこちらが強烈と言って良く、この訳者解説だけでも読む価値がある。というか本書の最大の読みどころといえる。

 こんな訳者だけあって、本文も注含めて面白く翻訳している。毎ページといっていいほど訳者注が入っており、前提知識が無くても読めるのみならず絶妙な突っ込みが入っている。

 民主主義へのオルティナブルとして読んだ場合はある種の失望があるが、西洋的アカディミアを半ば追放された、現状優勢なリベラルへの異議申立書として読むならばそれなりに面白いだろうし、訳者解説通り、覇権国家の内情に干渉しようとした扇動の書としての読み方も良いだろう。

 結局本書からは出口は見出せずノー・イグジッドといった方が良い。ノーボイス・ノーイグジッド、声も出口もない。そう考えると現状の苦境は見えてくるだろう。保守派は啓蒙という光の中で矛盾した存在になり、進歩に取り残された哀れな敗北者となる。そんな中、反動として出口を探すものの、出口はない。すでに資本主義によって外部は、夢の中すら覆われてしまった中、脱出できるところは何もない。新官房主義は官房主義が滅びたように自滅する(いやー個人的には経済学ベースで官房学的なものの復活はあっても良いと思うのですが)「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かってゆく」は新反動へも反射されるだろう。宗教性に対してのアンチも宗教性を帯びかねない。

 …ところで、モールドバグ(カーティス・ヤーヴィン)に絡みすぎというか、その議論の援用ばかりで、ランド自身の部分がイマイチ少ないのも何かなと。いや、そういうものは多いがどうしてもランドの方は、絡んだ上で自己見解という感じがしないのがなんともという印象を受けた。

 また気になる点で、経済学的見地はほとんど顧みられていない点も気になった。彼らが嬉々として飛びつきそうな見地が多く有るにもかかわらず、わずかな言及しかないのも何だろうという気がする。折角リバタリアン系主体として、オーストリア学派への言及も有るのだから、もう少し掘り下げて、制度派の見地なども入れて論ずればもう少し説得力もあったと思われる。

 

 まあ、読む価値はあると思う。反リベラルの書としてはそこそこ面白いことも書いており、少なくとも二流以下の反リベラル系に比べて幾分かのまともな考察があるといえるだろう。扇動込みとはいえ、リベラル派の問題点をいくつかはついているし、一応出口らしきものも示してはいる(出口といえない出口だが…)。

 フィッシャーの方が非常に面白いが、対にして読む価値はあり、訳者解説含めて一読すると勉強にはなると思う。